タイトルは、まだ、ない。

[PREV] [NEXT]
...... 2023年11月27日 の日記 ......
■ えんぶ劇評雑感   [ NO. 2023112701-1 ]
えんぶの劇評、まず「例えば森繫久彌が、森光子が、もっと近いところでは浜木綿子」って、浜木綿子は近いところ扱いか!と、まずツッコミ(笑)最近何してるのかなーって思ってたもん。猿之助さん亡くなって、まだ元気なんだ、って思ってた。

えんぶの劇評、これぞ劇評!そうなんだよ、帝劇、東宝作品の系譜の上に、このりゅぴんはあると思うんだ。私だって昔のことを詳しく知っているわけではないが、ただヅカだ、と言ってしまえば上澄みだけ。ここまで系統的に論じられるものこそが、本当の劇評なのだ。特に好きじゃなかったけどこれはよい。
ざっとしか読んでいないものの、えんぶの劇評を思い出しながら観た部分もあるんだけど、ゆうたの「スター性」というのは、どこから来たものなのかなぁ。そりゃあ私には、2007年12月12日のアンコール、あの瞬間でしかないのだけれど。いつの間に、そうなったのかなぁ。
今回、いやエリザでもくろばはすごい良くて、次のヴォルフで観てみたいと思わせるくらいなんだけど、ただ、埋もれてしまう部分あるなぁ、って。それを思うと、ゆうたは見映えがする、そういう違いがあるように思える。その違いは、どこにあるのだろう。ゆうたの魅力を言語化することは、難しい。
と、帝劇0番に相応しい振る舞いをしているゆうたを、帝劇0番に相応しい存在感を放っているゆうたを、不思議に、そして眩しくも観ている。


改めて思うのは、日本の演劇って、江戸の昔から「スター」文化だよね。令和の現在ではそれに疑問を呈する向きもあるが、歴史を否定することは出来ない。りゅぴんは、帝劇、東宝演劇の昭和から平成中期くらいまで多かった王道、都大路を堂々を爆走してるんだと思う。
荒唐無稽な設定、ご都合な展開、恥ずかしさに吐いてしまいたくなるような直球台詞。大向こうが飛んできそうな。だから、「古典」なんだと思ったんだな、私。ヅカだとかヅカでやればいいとかじゃなくて、帝劇だからこそ、の演目だと。
「スター」がいなくなったのと同時にレミのような作品が入ってくるにしたがって、そういう古来の商業演劇が影を潜め、それが今残ってるのが宝塚歌劇、なのかもしれない。それしか知らないと、ヅカじゃん、ということになるのかな。
ゆうたって、輸入ミュージカル全盛期の時代から、今のシフトして行っている時代の過渡期に居合わせてる(エリザで唯一ずっと残ってるプリンというところなども含め)数少ない存在なのかな、って今回思ったんだけど、イケコもまた、そういうことなんだと劇評読んで気付いた。当然だけど(笑)
イケコもまた宝塚歌劇の歴史の中の過渡期の真ん中を来た人なんだけど、そもそもはアングラに興味のあった人、というのが面白いなぁと。スター芝居とは正反対じゃない?でもポーを愛しているというところからもわかる、極めて二次元的な作風、ポリシー。
今はヅカ的作品に合わせてるけど、場に合わせたモノを作れる人なんだと思うんだけど。どうなんだろうね?そこはあくまでもヅカ育ち、になっちゃうのかな?けど、今回のりゅぴんは、すごく客観性があるように感じるんだよなぁ。頭のいい人。こんなことを思う私が馬鹿か。
イケコだって昔から天才だったわけじゃないよね?役者と同じように経験を積み重ねてきて、それが今ここに来てある種の、一定の結実に繋がってるのかな。古川雄大との邂逅によって。外部(笑)においてイケコのミューズはこれまでもいたけど、タイミングってあるから。
スター芝居作品の経験、海外ミュージカルの経験、それらを積み上げた先にあった挑戦に、同じように10年強の経験を積み上げてきた古川雄大の挑戦が重なった。選ばれた。それが、いつもみたいに指導するんじゃなく、タッグ、バディ、ってことになるのかなぁ。
ゆうたの単独主演にこんなの用意してくれてありがとう!五体投地!というのも事実だけど、イケコはイケコで、イケコの詰め合わせみたいな気持ちでいたけど内実そうではなくて、イケコも挑戦だったのかなぁ。常に新しいものを求めてる人だと思うんだよなぁ。それって、許斐にも近いかも?
でもやっぱ確実に客が喜ぶモノを知ってて入れてるし、いやでも偶々イケコの美学が客が喜ぶモノになってるだけなのかもしれない、っていうせめぎ合いがある(笑)客を驚かせたい気持ちは絶対にあるんだろうけど、間違えちゃいけないのは、決して客に媚びてはいないと思う。そこって大きいと思うなぁ。
それで言えばゆうたも、この作品にとって自分の役はどうあればいいか、主役に対してどうあるべきか、を常に考えてきたゆうただから、客観性を持ち合わせている人だと思っていて。その感覚が、良い形で客に降りてくる。作品の中で、ベストなピースになって残る。

だ!か!ら!こ!そ!!!今私がとてもとても不愉快に思っていること、信じられないんだ。許せない。おかしくなっちゃったのかな!
まぁ、それは別問題として。

「いずれにも非常に真摯に取り組む古川の俳優としての真面目さ、努力家の美点」ってその通りで、イケコの千本ノックを乗り越えてきたからこその今回、って思うように、ゆうたの素直さが、イケコは好ましいんだろうなぁ。
ただ指示を受け入れるだけなら、ここまで愛しはしないだろう。凡人なら天才の指示に疑問を呈してしまいそうなところ、ゆうたの変に擦れてない素直さ(ばか、とも言う)が、一度それを受け入れ、更には柔軟性と頑固さを持って咀嚼して表に出す力。それは天性のモノだよなぁ。経験値とは別の次元。
演出家の理想を体現するのが役者の仕事。でもきっとゆうたって、イケコにとってはそれ以上に想像していなかった体現をしてくれているのかもしれない。だからこその、エキセントリック。そして、それを否定はしない。イケコもまた、柔軟性と頑固さ、あるんだろうな(笑)
で、その体現は、やはりどうしても経験に基づく部分もあって。それがこの12年。亀の歩みだったけれど、確実に積み上げて壊れて積み上げて壊れて積み上げてきた中で、より一層体現出来るようになったのが、りゅぴん、なのかもしれない。あー、この感慨。ファンとして言葉にならないよね。
では。じゃあ、古川雄大の「スター性」はどこから顕現したものなのか。ずっと好きでいたけど、気付いたら世間では「スター」になってた。その説得性って、どこから?いつから?いつの間に?そっか、ゆうたってスターだったんだ…って。ちょっと、狐につままれた気分になっている、今。
スターって、なんだろうね。「〇〇が演じる〇〇」。私はゆうたの芝居を好ましく思う人間なので言ってしまうが、役者が出てきてしまう芝居は好きではない。それって芳雄先輩やいっくんに感じるなぁと、ふと。だからゆうたを「スター」と言われると、それもまたちょっと違う、スターの王道ではないかな。
ゆうたの優れた部分、「客観性」が、役者が出てきてしまわないことに繋がってる。まして今回、沢山の人物を演じることは、それによく作用しているだろうか。逸れるけど、エミールを演じているラウール。アネットを演じているラウール。その根底にラウールの人格って、あるのか無いのか。
本来なら必ずすべてにラウールの人格が根底にあるべきなんだけど、そしたらあれとかあれとかあれとか、どんなつもりでやってるんだラウールくん、と思い至って。混乱する。だが、いやそれは気にしてはいけない、荒唐無稽なお話なのだから、と思ったりする。変装ではなく別人格…ビリー・ミリガン…?
なんだろう。ゆうたが、もはやある種の「スター」であることは間違いないんだけど、古典の頃の「スター」とは違うんだろうなぁ。だから、古典だと思う反面、回帰したいと思っているようには全く思わず。新しさも感じるんだろうか。「新時代のスター」?スター以外の言葉はないかね?
劇評にあるように、この時代にオリジナルを掛ける賭け。勝ったと思うわ。ゆうたの人気にかこつけてね。…と思わなくもないが、そのゆうたを育てたのも東宝だから。ある種の古典じみた作品で勝負したわけだけど、そこに若い層が掛け算される。これが新しいんだろうなぁ。新鮮さを醸しているというか。
ゆうたが、単純に昔のスター芝居をしていたなら、ここまでじゃなかったのかもしれないな。ちょっと無理があるけどスターだプリンスだって言われてる人だからそう見えるように客も忖度する、というものでもないと思うんだよね、それはファンの欲目かしら?(笑)
劇評にある「エポックメイキング」の件もそうだけど、ここまで無理なく、自然にあの佇まいを表現出来ていること、これはちょっと驚きなんだ。そもそもゆうた、普通の芝居、あんま上手くなかったし。でも今回はすべての間が絶妙に作品にマッチしてる。あれって、なんなんだろう?
スッと入ってくるから、直球台詞にも拒否反応が起こらず、ぐぅぅ…と唸ってしまうんだよな。息をするように、在る。これって、作品に対して、自分はどうあるべきか。そこなのかなぁ。ナチュラル過ぎて吐きそうになるよ。
逸れたけど。基本ほとんどのツイを見てるけど、こういうのもいいね、というものが多い。鬱屈した社会情勢に触れている人も。舞台って、今、何故それを掛けるのか、って絶対必要だと思うんだけど、そこにもマッチしたのかもなぁ。エンタメの力、幅広さ。全てが奇跡の邂逅なのかもしれない。言い過ぎ?
で。ゆうたの単独主演のために作ってくれた作品だからゆうたにしか出来ない作品、技術的な面からも2代目なんて有り得ない、と思ってたけど、「スター性」という観点からだと本当に有り得なくて、古川雄大唯一のための作品、ということを一層強く思わされるね。とんでもないモノを作ったな、東宝。
勿論、それはゆうただけの手柄じゃなくて、共演者が自分の仕事をきっちり果たしているからで。プロが同じ方向を見ているからこその作品、だと思う。作品を理解して、同じ感覚でいること。端々から伝わるカンパニーのよい雰囲気。そのマエストロは、古川雄大。なんだよなぁ。悪夢じゃなくて良かった😌

肝心なことを忘れていた。りゅぴんを単純に、宝塚歌劇を帝劇でやってるだけだ、という文脈で評するのはナンセンスだ、ってことです。劇評に触発されて確信した思考なのでした。

...... トラックバックURL ......
  クリップボードにコピー

...... 返信を書く ......
[コメントを書く]
タイトル:
お名前:
メール:
URL:
文字色:
コメント :
削除用PW:
投稿キー: